もう一人の辰五郎は、1800年生まれ。
本名は中村金太郎。
火消しになるきっかけは、煙管職人であった父の死。
自分の留守中に弟子が火事を起こしてしまい「世間に申し訳ない」と父は火の中へ身投げしたそうだ。
金太郎は、当時「浅草十番組を組」の頭であった、町田氏に弟子入りをします。金太郎16歳の時です。
町田氏は、亡き息子の名前「辰五郎」を金太郎に与えます。金太郎は、跡目としてすぐに期待された様ですね。
辰五郎が火消しとして最初に名を上げたのが、
1821年の花川戸の火事。
を組は一番に火事場へ駆けつけ、纏を揚げたのだが、遅れてきた大名火消しの横やりに会い、火事そっちのけで大喧嘩となってしまう。
大勢の怪我人を出した事で責任を感じた辰五郎、けじめをつける為に将監屋敷へひとりで乗り込みます。その心意気がかわれ、責任は問われずに済むのです。この話が江戸中に広まったそうな。
1824年、吉原の火事。この時の喧嘩は、多くの組を巻き込んだ江戸最大の喧嘩となります。その際も辰五郎は、喧嘩を仲裁し、さらに男っぷりをあげ、多くの鳶仲間から信頼を受けるようになります。数年後、町田氏の娘と結婚し、24歳の時に「を組」の頭を継ぎます。辰五郎親分の為なら…と命知らずの子分が3000人はいたという。
新門辰五郎と呼ばれるようになったのは、浅草寺、伝法院の新しい通用門の番人を任された事からです。
1864年、15代将軍・徳川慶喜の警護、京都二条城の防火も任されます。
幕末の中、勝海舟との繋がりもあります。
勝と西郷隆盛との会談が決裂した場合、江戸市中に放火する役目を仰せつかっていたのが辰五郎らだったのです。
1868年、江戸城の無血開城。慶喜とともに水戸から静岡へも同行しました。
1871年、慶喜の警護を清水の次郎長(当時50歳)に託し、浅草に戻ります。明治4年、辰五郎70歳。
次郎長も勝海舟より信頼され、江戸城無血開城の陰の立役者のひとり。勝から西郷への密書を届けたのが、勝の腹心・山岡鐵舟。その護衛をしたひとりが、次郎長だったのです。
新政府軍の江戸城総攻撃が行われていたら、辰五郎も次郎長もその後はどうなっていたのやら…。
浅草の新門辰五郎、清水の次郎長…とくれば、
森の石松。
「江戸っ子だってね〜」の言葉は、辰五郎との関連があるのかもしれない。
|