鳶だけで編成された町火消しは
1718年に大岡越前が定めたもの
大火の多かった江戸の町「自分の町は自分で守る」と立ち上がった火消し団体です。
隅田川を境に西をいろは48組、東を本所・深川16組と分け、合計64の火消し組があったそうです。

もう一人の辰五郎は、1800年生まれ。
本名は
中村金太郎
火消しになるきっかけは、煙管職人であった父の死。
自分の留守中に弟子が火事を起こしてしまい「世間に申し訳ない」と父は火の中へ身投げしたそうだ。
金太郎は、当時「浅草十番組を組」の頭であった、町田氏に弟子入りをします。金太郎16歳の時です。
町田氏は、亡き息子の名前「辰五郎」を金太郎に与えます。金太郎は、跡目としてすぐに期待された様ですね。
辰五郎が火消しとして最初に名を上げたのが、

1821年の花川戸の火事。
を組は一番に火事場へ駆けつけ、纏を揚げたのだが、遅れてきた大名火消しの横やりに会い、火事そっちのけで大喧嘩となってしまう。
大勢の怪我人を出した事で責任を感じた辰五郎、けじめをつける為に将監屋敷へひとりで乗り込みます。その心意気がかわれ、責任は問われずに済むのです。この話が江戸中に広まったそうな。
1824年、吉原の火事。この時の喧嘩は、多くの組を巻き込んだ江戸最大の喧嘩となります。その際も辰五郎は、喧嘩を仲裁し、さらに男っぷりをあげ、多くの鳶仲間から信頼を受けるようになります。数年後、町田氏の娘と結婚し、24歳の時に「を組」の頭を継ぎます。辰五郎親分の為なら…と命知らずの
子分が3000人はいたという。
新門辰五郎と呼ばれるようになったのは、浅草寺、伝法院の新しい通用門の番人を任された事からです。
1864年、15代将軍・
徳川慶喜の警護、京都二条城の防火も任されます。
幕末の中、勝海舟との繋がりもあります。
勝と西郷隆盛との会談が決裂した場合、江戸市中に放火する役目を仰せつかっていたのが辰五郎らだったのです。

1868年、江戸城の無血開城。慶喜とともに水戸から静岡へも同行しました。
1871年、慶喜の警護を
清水の次郎長(当時50歳)に託し、浅草に戻ります。明治4年、辰五郎70歳。
次郎長も勝海舟より信頼され、江戸城無血開城の陰の立役者のひとり。勝から西郷への密書を届けたのが、勝の腹心・
山岡鐵舟。その護衛をしたひとりが、次郎長だったのです。
新政府軍の江戸城総攻撃が行われていたら、辰五郎も次郎長もその後はどうなっていたのやら…。

浅草の新門辰五郎、清水の次郎長…とくれば、
森の石松
「江戸っ子だってね〜」の言葉は、辰五郎との関連があるのかもしれない。

祭り半纏の始まりは
火消しの半纏だったと聞きます。
半纏も纏と同様、組の馬印。ひと目でどこの者かわかります。さらに個人の身分もわかるようになっています。
火消し半纏は、腰の白筋数で組(地区)が、背中の文字でいろは(町名)、肩の赤筋と襟の文字で階級がわかります。組頭・副組頭・小頭が肩に赤筋入り。続いて、筒先・道具持ち(纏・梯子・刺股)・若い衆(手鳶・竜吐水)となります。
祭り半纏は、そこまで区別されていませんが、睦の役員は青年部などと呼ばれ、半纏の色や襷で区別する事が多いようです。
祭には、火消しほどの階級はありませんが、火消し組も祭り睦も、厳しい縦社会。年齢に関わらず、上下関係はしっかりしていて、礼儀を重んじます。

今では、なかなかお目に掛かれない纏ですが、出初め式での纏振り奉納の他、消防慰霊祭である弥生祭では、梯子乗りと纏振りが披露されます。町火消し誕生から昭和14年までの殉職者は120名だそうです。以外に少ない!?
纏は、今でも消防士のシンボル。弥生祭開催時の境内は、火消し装束を身にまとった鳶達でいっぱいになります。(毎年5月25日、浅草神社にて)

新門辰五郎の七代目
杉林氏
現在、土木建築設計施行業の新門の代表取締役。
浅草寺、浅草神社御用出入りの看板を掲げている。三社祭の宮頭。多くのメディアに取り上げられている人物です。
神田祭の宮頭も同じく、江戸消防、第四区・五番組の頭が引き継いでいます。
江戸の華であった火消しは、祭りを仕切る頭になり、舞台は火事場から祭へですね。