伊勢屋といえば、江戸で儲けていた商人。江戸の町は伊勢屋の看板ばかりだった。
近江、伊勢から出てきた者が多かったらしいが、同じ屋号にしなくてもいい様なもの…と思う。
一番儲けた商人といえば、皆さんもご存じ、呉服の越後屋さん。
「越後屋〜お主も悪やのう」の官僚と連んで儲けた極悪商人…とは違ったようで、黄門さまが語った「越後のちりめん問屋」と同じか…とにかく名の知れた松阪の商人です。
「飲みねぇ、飲みねぇ、お茶飲みねぇ、もっと近くに、寄んねぇ!?」のサービス。「せいぜい勉強さしてもらいまっせ」と、云ったかどうか判らないが、新商法で儲けまして、今の三越になったそうな。商いにはやはり関西弁がいいのかな?
驚いた事に、店は番頭まかせで、主人は、江戸には滞在せず、地元、伊勢で優雅に生活してたそうな。
ただし、経理はしっかりチェックしていたとか。江戸の儲けで、地元の発展に貢献し、名を残しています。
さらに従業員はすべて地元伊勢で採用した者。他国の者は信用できなかったという事なのか。
近江の泥棒、伊勢の乞食という言葉があるそうだ。しかし、財力があった武士が、後には商人に頭を下げてまで、お金を借りるようになる。士農工商を逆転させる、伊勢の商人たちは、やはりすごいなぁ。
稲荷にしてもそう、伏見、豊川、熱田を本山とするお稲荷さんを至る所に奉り、信じ念じていた江戸町民。
犬の糞とは、稲荷の多さの例えのようで「生類憐みの令」の影響があったのかどうか判りませんが、稲荷も御犬様の糞もあちらこちらにあったようです。これは、名物のひとつ火事が原因みたいだ。
大火の多かった江戸の町。一夜にして財産すべてを失う事を恐れた江戸町民が、神に祈ったわけです。
主は豊穣の神(稲荷=稲成)でしたが、この頃から火防、商売繁盛の神としても信仰されていったようです。
多くは京都伏見稲荷の分身。全国に多くの稲荷が広まったのは、それだけ御利益があったという事でしょうか。信じる者は救われたということか…うちの事務所も稲荷を祀らなきゃ。
稲荷といえば狐。なぜ狐なのかよくわからないが、田の神の習性と狐の習性が似ているようだ。
田の神は、春先に山から降りてきて、作物の順調な生育を助け、秋の収穫が終わると山へ帰っていく。狐の春に発情し、人里近くに降りてくる習性と関係しているらしい。
狐は稲荷神の使いと聞く。必ず一対の狐が祀られている。稲荷神の本体ではないようで、狛犬と同様に社前を護る事が役目らしい。
東京の王子稲荷では、江戸時代から続いているお守り火防ひぶせの凧が、今でも売られています。
魚河岸も大阪の発祥。
家康が、江戸入りする際に大阪・淀川佃町の漁師である森一族を呼び寄せる。江戸城内の食材調達と上納を目的としたもので、漁業権を与え、向島(今の佃島)に住まわせた事が始まりらしい。
江戸の銭湯も伊勢出身の与一という男が、銭瓶橋(呉服橋近く)のたもとで開いたのが最初。蒸気風呂だったようで、混浴だったとか。でも、湯巻着用ですよ…残念? 銭湯を関西では風呂屋、関東では湯屋(ゆうや)と呼んでいました。
花火があがるとたまや〜かぎや〜の掛け声が聞こえてくる。私もつられて云った事がある。
「玉屋」「鍵屋」とは、花火職人の事。どれだけの人が知っているのだろう。
鍵屋とは、これまた奈良から出てきた男が作りあげた将軍家御用達の花火屋。(三重出身とも聞くが…?)
将軍家たちの納涼目的として打ち上げた花火は、隅田川の花火大会の始まりとなります。
1812年に鍵屋の職人が、ひとり独立します。それが玉屋です。江戸の花火は鍵屋と玉屋の競演でした。
しかし、玉屋は1843年に火事を起こしてしまい、江戸追放、家名断絶と一代限りで終わってしまったのです。
今でも「たまや〜」の掛け声を、多く耳にしますが…鍵屋はどう思っているのだろう。
多くの文化、商業が栄えた江戸の町。
元祖江戸物は数少ないかもしれないが、うまく受け入れられた江戸の人たちがいたようだ。来るものは拒まず…なのでしょうか。今では、世界各国のものが入ってくる東京。多くのものが飛び交う街。流行の発信地とも云われるが、流行やブランドに捕らわれず、いいものを見極める能力がほしいものです。そして、文化を、伝統を伝え残してほしいものですね。
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